三上誠(1919-1972)
三上誠は、父嶋田和左九と母キクイの次男として、1919年父の出稼ぎ先の大阪市に生まれ、幼少年期は福井市で過ごした。
福井中学時代に亡き姉の幼女先三上家の家督を相続して、三上姓を名乗ったが、嶋田家で父母兄弟と生活を共にした。
1944年には、京都市立絵画専門学校日本画科を卒業した。敗戦直後、若手日本画家(大野秀隆、小郷良一、佐藤勝彦、下村良之介、鈴木吉雄、田中進、不動茂弥、星野真吾、松井章、山崎隆)らとともにパンリアル美術協会を創設し、1949年に、その第1回展を開催した。第2回展には新しい同志(日ノ下淳一、宮崎実仁、湯田寛更に野村耕)が参加した。
『同協会は、日本画壇の因習的な体質に抵抗し、社会性を重視して、日本画の膠彩芸術としての根底的な反省と表現の可能性の拡張を目指した。三上は同協会の中心的作家として活躍した。』(O美術館学芸員天野一夫氏)
<雪の日の丘>、<蓮と少女>(1947)<戦災風物誌>、<器官の露呈>(1949)
三上は絵画専門学校在学中より抜群の描写力をみせていた。同級の石本正氏、元京都美大教授が、デッサン力では太刀打ちできなかったと述懐している。初期の代表作『F市曼荼羅』(1950)では、『戦後のキュビスム・シュルレアリスムの総合を企てている。空中には解体された臓物のような図形が瑞運とともに浮遊し、その間に女の顔と市街が出没する。そして、はるかにひろがる地平線と、こわれた建物の前におかれたテープル上の石油ランプ。明るい色調にもかかわらず、この絵には現実の空気は感じられず、作者の空想による架空の空間である。高野山の”聖衆来迎図”からヒントをえたらしく、「曼荼羅」と名づけられているものの、いわれなき不安が追ってくる、奇妙な絵である。しかしこの絵の訴える不安と、生命への憧れは、三上誠が第2次世界大戦後に痛感させられた現実であった。外的世界の崩壊を、内的世界を究極にまでつきつめることによって示した点に、この絵のアクチュアリティがある。』(大阪大学名誉教授木村重信氏)
1951年バンリアル第1回総会で、会長となる。この頃後に結婚する乾昌子と知り合う。しかし、若い頃より肺結核を患い、1952年には肋骨11本切除という胸郭成形の大手術を受けた。その後、療養のため福井に帰郷を余儀なくされ、絵筆も取れなくなって詩や文章で苦悩に満ちた内面を表現した。(参考:『三上誠請集』)『田舎の環境への嫌悪、外界とのコミュニケーションを断ち切られている苦痛、死の恐怖と骨を噛む生への絶望など、病床に去来する感情が、率直に吐露されている。』(和光大学教授針生一郎氏)
<花がほしい>、<胸のはな>(1955)、<女の化石>、<荒地>(1956)、<湿地>、<棘>、<碑>(1957)
また、1959年頃より、石膏に紐を貼り付けたり、鳥の子紙の皺を効果的に使用したフロッタージュ風の作品等の様々な技法の拡張を試みた。
<断層化石>、<ウルカの星座>(1959)、<蛾>、<蝶><地炎>(1960)、<異性の街A,B>、<ココココの庭>、<作品>(1962)
1965年以後、『もっぱら灸によって健康を回復しようとするにつれて、人体経絡図と抽象図形の対比という、一種の図式絵画が発表される。遺稿の最後に収録された高島易断あての手紙には、西洋近代医学への不満と花鳥風月的な日本画への反抗が、彼を宇宙論的幻想と社会構造への洞察にみちびき、歴法、占星術、東洋医学、仏教の輪廻観などにも関心をむけさせた過程が、要約的に語られている。たしかに、ここには長い闘病生活をとおして三上誠がようやくつかんだ新しい世界観の端緒がうかがわれる。じじつ、それらの画面は自分をふくめて人間を、宇宙の森羅万象のなかで達観する、コンセプチュアルな視点をとおして、開放された空間のうちに警抜なアイロニーをたたえている。しかも、図式的な画面構成がフロタージュの材質感やモンタージュの自由な空想をはらんで、濃密で悲痛なリアリティをおびているのである。』(和光大学教授針生一郎氏)
<輪廻の花>、<輪廻の記号>(1965)、<灸点万華鏡>、<灸点輪廻>(1966)、<経絡万華鏡>(1967)、<環>、<経絡歴>(1968)
さらに、『1969年頃からは、幾何学的形態のなかに、突然の幻影のごとく女体が覗く不可思議な心理劇のような画面となり、新たな展開を見せた。』(O美術館学芸員天野一夫氏)
<日々の凍結の生理>(1969)、<機構の生理>(1970)、<窓>、<鏡>(1971)
『かれはふくよかな女体の表現を通じて、もはやかえらぬ健康への憧れを描きつづけたのである。無機的な灸点や線や幾何学的図形の配された死んだ構図なのかに、突然あらわれる女体や4肢――それはいったん死んで葬られた人が、墓のなかから急に首をもちあげたときのように、見る者をドキンとさせる。これらの有機的な人体の出現によって、沈黙した画面がさらに静まりかえり、メタフィジックな世界へと見る者をさそう。静と動、死せるものと生けるものとの奇妙な対照によって、三上誠は苦悩にみちた人間の運命を描いたのである。他人には不幸な運命とみえるかも知れないが、三上誠当人にとっては、それはみずから見通した、幸福な運命だったかも知れない。かって高見順が「描写のうしろに寝ていられない」といったが、三上誠は、死に至るまでこの言葉を身をもって実行した作家であるといえよう。』(大阪大学名誉教授木村重信氏)
しかし、1972年1月、再発した肺結核のため52歳をもってその生涯を閉じた。
『三上誠は、このような多彩な表現を見せながら、一貫して日本画のメディアの再生を志し、不断の自己凝視を続け、個人的な想念から出発しつつも、はるかに宇宙論的時空の次元にまで昇華した作品を制作した。』(O美術館学芸員天野一夫氏)
【 略歴 】
1919 (大正8): 8/7 福井県福井市出身
1940 (昭和15): 京都市立絵画専門学校 日本画科予科 入学
1949 (昭和24): 下村良之介・星野真吾らと共に「パンリアル美術協会」結成
1951 (昭和26):「パンリアル美術協会」会長
1952 (昭和27): 肺結核のため入院。以後、胸部手術を繰り返し11本の肋骨を失う
1957 (昭和32):「京都美術懇話会」入会
1958 (昭和33): 福井大学 学芸部 非常勤講師
1961 (昭和36): 乾昌子と結婚
1972 (昭和47): 1/16 52歳で逝去